国際戦略

4 8大学工学系部局の国際戦略
4.1 環境の変化
 大学国際戦略分科会が設定すべき戦略を定めるためには、まず8大学工学系部局をとりまく環境の変化を的確に認識しなければならない。1節において、大学の国際化の流れの中で、8大学工学系部局は次のような問題に直面していると述べた。
・世界的な人材獲得競争の下で、優秀な工学系留学生をどう確保するか。
・グローバル経済社会における問題の迅速な解決のためにイノベーションを生み出すことのできる博士課程学生の教育をどう行うか。
 ここでは、2節と3節の調査結果に基づいて、これらの問題の背景を分析し、8大学工学系部局が対応すべき環境の変化について述べる。
 第1番目に、世界的な人材獲得競争の背景にあるのは、新興国の経済発展に伴う留学生数の急激な増加である。2節でみたように、留学生数は、現時点(2007年)での約300万人が、約15年で2倍の約600万人に増加すると予測できる。また、現時点(2008年)で、最も多く留学生を受け入れている国は米国でその数は約60万人(構成比18.7%)である。これに対して日本が受け入れた留学生数約12万人(構成比は3.8%)である。3節でみたように、現在のグローバル経済社会の成立に、米国が優れた留学生を数多く引き寄せたことが貢献していることを考えるとき、今後、世界的な人材獲得競争の激しさが増すとの認識を新たにせざるを得ない。ちなみに、中国の留学生受け入れ数は22万人、また中国は留学生を最も多く、しかも偏りなく各国に出しており、その数は約50万人である。人材獲得競争の相手として意識すべきは米国と将来の中国である。当然のことながら、大学の一部局である(8大学)工学系部局は、このような留学生の急激な増加への対応を免れない。
 ところで、「国際化拠点整備事業―グローバル30(G30)」[16]では、600万人の5%、すなわち30万人を確保したいとの意図から、数値目標30万人が立てられたと聞く。その目的は、次のように掲げられている。
 『世界的な人材獲得競争が厳しくなっている状況の下、我国の高等教育の国際競争力の強化及び留学生等に魅力的な水準の教育等を提供するとともに、留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる高度な人材の養成を図ることを目的としています。』
 第2番目に、イノベーションの新たな潮流として、内閣府が作成した資料[17]から、次の記述に注目する。
 『グローバル市場での競争の激化、消費者ニーズの早い変化に対応するために従来以上の速いスピードでイノベーションを実現することが求められ、従来型の自前主義の閉鎖的方法ではなく、必要となる研究開発能力、技術的知見、人的資源及び資金を広くオープンな市場から調達し、効率的なイノベーションを目指す、「オープン・イノベーション」が世界の潮流となってきている。』
 これが意味するものは、3節の頭脳循環に関する調査結果からも、理解できるところである。平成21年度の科学技術白書[18]でも、イノベーションのオープン化・グローバル化に触れている。当然のことながら、技術革新を起こすのに最も近い立場にある8大学工学系部局は、このようなオープン・イノベーションへの対応を免れない。
 第3番目に、日本人学生の理工系離れや海外留学を避ける内向き志向が顕著になってきたことが挙げられる。これは、低成長期に入った我国の少子化傾向にあるにも拘わらず、高度成長期の定員規模が今なお維持されているため「大学全入」の状況となり、学生間の競争や切磋琢磨が以前ほどには行われず、学力の低下が目立ってきていることにもよる。このままでは、各産業界への優秀な人材供給が危うくなる。また、東京大学・園田茂人教授は、大学の国際化が日本人学生の内向き志向に拍車をかけているという皮肉な現象を「国際交流のウィンブルドン化」と名付けている[19]。内向き志向は留学試験への合格率が落ちていることも一因と聞く。大学の一部局である(8大学)工学系部局は、このような日本人学生特有の事情への対応を免れない。

4.2 新成長戦略など
【新成長戦略】
 現政権は「新成長戦略」[20]を打ち出しており、上に述べた8大学工学系部局を取り巻く環境の変化への対応策として参考になる部分がある。
 まず「新成長戦略」の15番目に、「『リーディング大学院』構想等による国際競争力強化と人材育成」があり、次の記述がある(図9参照)。
 『拠点形成と集中投資により、我が国の研究開発・人材育成における国際競争力を強化する。すなわち我が国が強みを持つ学問分野を結集したリーディング大学院を構築し、成長分野などで世界をけん引するリーダーとなる博士人材を国際ネットワークの中で養成する。最先端研究施設・設備や支援体制等の環境整備により国内外から優秀な研究者を引き付けて国際頭脳循環の核となる研究拠点や、つくばナノテクアリーナ等世界的な産学官集中連携拠点を形成する。また、「国立研究開発機関(仮称)」制度の検討を進める。特定分野で世界トップ50に入る研究・教育拠点を100以上構築し、イノベーション創出環境を整備するとともに、博士課程修了者の完全雇用と社会での活用を実現する。』
 図9に、「WPI世界トップレベル研究拠点プログラム」[21]が参照されているが、そのプログラム委員長井村裕夫氏から次のメッセージがある。
 『近年、優れた頭脳の獲得競争が激化してきている中で、我が国が科学技術の力で政界をリードしていくためには、優秀な人材のグロバールな流動の「環」の中に位置づけられ、世界中から人材が集まる開かれた研究拠点を作っていく必要があります。・・・ 今後も、これらのWPI拠点がさらなる発展を遂げ、真に世界の頭脳循環のハブとなるような世界トップレベルの拠点として卓越した研究成果を生み出すことを期待し、・・・』
 ここでいう頭脳循環は、3節の調査結果を参照すると、どちらかというと留学生の増加を担う新興国とではなく、研究先進国との国際交流を意味しているようである。


図9 「新成長戦略」の第15番目の戦略項目


図10 「新成長戦略」の第8番目の戦略項目

 図9において、他に留意すべきは、「リーディング大学院」により、博士課程の更なる強化を求めており、「学位プログラムに基づく」と記述していることである。また、イノベーションの言葉はあるが、起業家精神を育成するような記述は見当たらない。
 さらに、「新成長戦略」の8番目に、「グローバル人材の育成と高度人材の受け入れ拡大」がある(図10参照)。これより、留学生の増加への対応と、日本人学生特有の事情(内向き志向)への対応がカバーされていると言えるが、8大学工学系部局の使命に則した具体的議論が必要である。

【科学立国のつまづき】
 日本経済新聞社編集委員・滝順一氏は、「科学立国のつまづき」と題した記事[22]の中で、次のような指摘を行っている。
 『しかし先行する米国との研究開発力の差は縮まるどころか、生命科学や情報技術の分野では逆に広がった。背後では中国や韓国に脅かされる。・・・』
 『博士の育成策も破綻している。・・・「大学はお金をかけて育てた若手を即戦力としてだけ利用し、使い捨てにしている」・・・そんな大学院の実態は学生に知られ、博士課程の進学率は減り始めている。』
 『産学連携もうまくいっていない。・・・成果主義の波にさらされ・・・「産業貢献を重視すべき工学部でも論文数を競う風潮が定着した」・・・』
 大学毎に事情が違うので、これらを追認するものではないが、このような指摘があることには耳を傾けなければならない。特に、先述のG30の目的にある高等教育とは、8大学工学系部局にとっては博士課程教育を指し、そのキャリアパスの設計が求められているといえる。これは学位プログラムの提案において考慮することもできる。
 また、同記事には、次の指摘も引用されている。
 『一部の政策だけ欧米流をまねても、社会の仕組みが変わらなくては矛盾が生じるばかりだ』(東京大学名誉教授・黒川清氏)
 『人や情報が自由に動くグローバル化が進み、中国などのキャッチアップに有利な環境が生まれてきた』(政策研究大学院・角南篤准教授)
 一番目の指摘はデリケートな論点(既得権に絡む)を含む。また、二番目の指摘に関連すると思われる、次の報告がある。

【中国成長の源泉=起業家精神】
 東京大学・丸川知雄教授は、次の指摘を行っている[23]。
 『これまで中国は労働力の豊富さを武器に高い成長を続けてきたが、今後は起業家精神の旺盛さこそが、中国成長の源泉となるであろう。』
 GDP2位の座を譲り渡した日本では、新成長戦略に起業家精神という言葉が見当たらない(正確にはPDFファイルで検索をかけると1か所だけ)こともあって、当初は耳を疑わざるをえなかった。しかし、丸川教授の報告内容は、3節で調査した、グローバル社会のイノベーションの仕組みを地で行くものであった。

4.3 国際戦略の一つの枠組
 8大学工学系部局が対応すべき環境の変化として、次の3つを挙げた。
 ・新興国からの留学生の急激な増加
 ・イノベーションのオープン化・グロバール化
 ・日本人学生の内向き志向
 これらへの対応の指針は、一応、次のように述べることができるであろう。
 「8大学工学系部局の高等教育(特に博士課程教育)において、日本人学生と留学生とが切磋琢磨する環境を整え、オープン・イノベーションに対応できる高度なグローバル人材の養成を図る。」
 ここで、高等教育とは、8大学工学系部局にとっては博士課程教育であることを是認せざるを得ない。したがって、修士課程教育と学士課程教育は、できるだけ博士課程教育に繋げることが必要となる。
 しかし、上の指針の中にどのような戦略的意図を組み込むのか、また世界的な人材獲得競争の相手と目される米国や将来の中国と、WIN-WINの関係を築けるかが問題となる。
 3節の調査結果から、次の仮説が立てられていた。
 「21世紀のイノベーションは、シリコンバレーを核にした分散的・補完的グローバル・ネットワークの中から、現代のアルゴノーツ(米国で教育を受けた外国生まれの起業家で頭脳循環の担い手)によって生み出される」
 以下では、これを受け入れて議論を進める。
 そうすると、まず日本の立ち位置を定める必要がある。そのためには、シリコンバレーのITやバイオ分野での実績を考えて、補完的かつ競争優位性のある分野を特定することになる。これは、一般的には、環境・エネルギー分野と言えそうであるが、最終的には、8大学がそれぞれに、または連携した大学(外国の大学との連携も含めて)が特定すべきものである。以下では、特定された競争優位分野と呼ぶ。そして重要なのは、シリコンバレーを核にした分散的・補完的グローバル・ネットワークの中に入れるかどうかである(もちろん入らなくとも良いというスタンスもあり得る)。
 次に検討すべきは、博士課程修了生のキャリアパスの設計である。これは日本人学生と留学生とで異なる。また、どのような学位プログラムを準備するかにも関わる。まず、留学生は「現代の日本版アルゴノーツ」(日本で教育を受けた外国生まれの起業家で頭脳循環の担い手)になることが期待される。日本には起業家精神を育む土壌がないと言われているが、そのような土壌を準備できないとまでは言い切れない。大企業の中にも企業内ベンチャーの試みがあるし、また中小企業こそ起業家精神なしには生き残れない[24]とよく聞く。しかし現代の起業家の活動はもっと迅速・自由である。また起業するテーマは、将来母国に貢献できるものであることが望ましく、学位プログラムの編成に留意すべきである。一方、博士課程を修了した日本人学生の就職は、2/3が企業と大学で、残り1/3が「行方不明」と揶揄されている[22]。博士課程では留学生とともに切磋琢磨するのであるから、その繋がりを生かせることが望ましい。


図11 日本と途上国との間の頭脳循環

 以上から、留学生向けと日本人学生向けの戦略は表裏一体とし、お互いに切磋琢磨する高度職業人養成のための高等教育(博士課程)の整備が、8大学工学系部局の国際戦略の一つの枠組みとして考えられる(図11参照)。

【留学生向け国際戦略】
 「工学分野の基礎教育(学士課程、修士課程)に力を入れている途上国から、相当数の留学生を受け入れる。留学生に、特定された競争優位分野での学位プログラムによる高等教育(博士課程)を通して、博士号を取得させる。彼らには、日本での起業を促す。将来的には、日本との連携を保ちながら、母国での起業を促す。」
【日本人学生向け国際戦略】
 「オープン・イノベーションに対応できる高度グローバル人材養成を希望する日本人学生に、特定された競争優位分野での学位プログラムによる高等教育(博士課程)を通して、博士号を取得させる。(特に、シリコンバレーでのアントレプレナーシップの研修を受けさせる。)彼らには、同じ学位プログラムを修了した留学生とともに、日本での起業を促す。将来的には、帰国した留学生の日本における連携先となる。」
 これら表裏一体の国際戦略の意図は、現代の日本版アルゴノーツを生み出し、日本と途上国がイノベーションの成果を分かち合い、それを世界に広めることと言える。

4.4 検討すべき課題
 8大学工学系部局の国際戦略の一つの枠組みを述べたが、ここでは関連するいくつかの具体的課題を掘り下げてみる。

【博士課程学位プログラムの編成】
 ㈱産業革新機構・産業革新委員長・吉川弘之氏からの次のメッセージがある[25]。
 『人類が遭遇している課題の中には気候変動だけでなく、生物多様性の喪失、資源の枯渇、水問題、食糧問題、新病の発生などの諸問題があり、それらが世界的な人口増加のもとで貧困を解消するという社会的問題と重なって、極めて複雑な難問を抱える時代となりました。また、これらの諸問題に立ち向かうための具体的な行動が全世界で求められる時代が近づいています。』
 工学には、人類が直面する諸問題の解決に有用な物作り(解析・設計・生産ツールの提供)を求められている。途上国では生活インフラの整備が将来的な課題であるが、状況に応じて多様な技術革新が必要となる。水問題を取り上げると、たとえば図12に示す文献のように当該分野の研究成果がまとまれば、競争優位性を前面に出した博士課程の学位プログラムの編成ができるであろう。
 重要なのは、キャリアパスを考慮した学位プログラムの編成である。そこでは、当該学位プログラムを修了する日本人学生と留学生が起業し、それが将来留学生の母国に将来母国に貢献できるように配慮することが望ましい。

【優秀な博士課程学生の確保】
 まず、日本人学生については、オープン・イノベーションに対応できる高度グローバル人材養成の意義とそのキャリアパス(アントレプレナーシップ)の魅力について、十分な説明を行うことが肝要である。これにはオープン・イノベーションの実態に触れさせるなど、それなりの工夫が必要である。
 次に、留学生については、工学分野の基礎教育(学士課程、修士課程)に力を入れている途上国から、相当数を受け入れることが肝要である。もし、基礎教育が不十分であれば、8大学工学系部局のカリキュラムの輸出やサテライト・キャンパスの設置が考えられる。たとえば、ミシガン大学は上海交通大学キャンパス内にサテライトキャンパス[26]を開設し、優秀な学生に確保に努めていると聞く(図13参照)。いずれしても米国との人材獲得競争になるので、これまで以上に8大学工学系部局の魅力を高め、広報することが必要がある[27], [28], [29]。
 相当数の留学生の確保が必要としているのは、起業支援のために、同胞のコミュニティまたは同窓会の果たす役割が大きい[2]とされているからである。
 そもそも8大学工学系部局でどの程度の博士課程留学生の受け入れが可能なのだろうか。専攻分野が学際的となっていることもあって、各大学の個別調査の機会を逃しているが、九州大学の工学系部局の場合、留学生数は、2010年11月時点で、学部=74人、修士=52人、博士=152人、研究生=42人である。


図12 水問題に関わる研究成果をまとめた文献の例


図13 上海交通大学キャンパス内のミシガン大学サテライトキャンパス[26]

 日本学生支援機構の2010年5月時点での集計[30]によると、8大学の留学生受け入れ数は、北大=1162人、東北大=1511人、東大=2772人、東工大=1247人、名大=1501人、京大=1530人、阪大=1662人、九大=1713人、合計13098人である。すべての留学生数141774人のうち、工学分野は22567人(構成比15.9%)であるので、単純にこの構成比を掛けると2082人である。国立大学の大学院と学部の留学生数はそれぞれ24355人と10362人であるので、この割合で8大学の大学院の留学生数を推定すると1460人である。博士課程留学生数の割合を3/4とすると(九大の実績から)、8大学工学系部局で受け入れが可能な博士課程留学生の推定数は1095人、1学年当たり365人となる。10年間で3650人である。これを少ないとみるか多いとみるかの判断は別にして、イノベーション人材として教育できるかが問われている。また、図8で示した台湾へ帰国したハイテク移民数の多さを実感せざるを得ない。

【シリコンバレーとのコネクション】
 8大学工学系部局にとって、シリコンバレーはどのような存在で、そのコネクションは強化すべきなのであろうか。言いかえれば、図7のIT・バイオ分野の頭脳循環拠点シリコンバレーを核とするネットワークに、図11の特定された競争優位分野の頭脳循環拠点日本を核とするネットワークを融合すべきかである。
 おそらく二つの考え方があって、一つ目はどのような分野もITには深く関わるので融合すべきという肯定的なもの、また二つ目はIT分野とは競合しないので融合する必要ないという否定的なものである。
 3節の調査結果によれば、シリコンバレーと同様な(IT・バイオ分野での)頭脳循環拠点を築くことの難しさ、すなわち起業家精神の開放的な生態系(ecosystem)を築くことの難しさが強調されている。イノベーションがIT分野からバイオ分野へ広がっているのであれば、一つの可能性は、特定された競争優位分野が、シリコンバレーを核にした分散的・補完的グローバル・ネットワークの中に入ることである。
 実は、8大学の一部は、次の組織を界して、シリコンバレーとのコネクションをもっている。
 JUNBA – サンフランシスコ・ベイエリア大学間連携ネットワーク[31]
・大阪大学サンフランシスコ教育研究センター
・九州大学カリフォルニアオフィス
・東北大学米国代表事務所
・東京工業大学バークレーオフィス
したがって、シリコンバレーの流儀を理解させるための海外経験を、日本人学生向け国際戦略の中に、組み込むことが考えられる。
 ちなみに、九大では、次の組織を立ち上げ、アントレプレナーシップの教育に乗り出そうとしている。
 九州大学ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センター[32]
ロバート・ファン氏は、九大で学位を取られ、シリコンバレーで起業されている。